上手にできたことに対する報いは、それができたということだ。-対となるアカンサス・リーフキャビネットに関する考察

アカンサスリーフの扉

The reward of a thing well done is to have done it.(R. W. Emerson)

対となったアカンサスリーフのキャビナットの扉。

作者は対照となるように作成したつもりだが、細かいポイントで微妙に異なっている。

それは、一目見ればわかること。

エイジングの色あい、モデリングのディテール。人間の手によって作られたわけなので、対照にならないのはむしろ自然なことです。いや、逆説的にいうと、違いがない方がおかしいのです。

今日はこの対になったキャビネット・ドアに関し、若干の技巧的考察を少し加えることと。および、この対になったバランスが人間の心にもたらす作用を、ほんのちょっとだけ考えてみたいと思います。

技巧的側面について

技巧的側面だけで考えると、この2つは作成した時期も異なるため、スキル・ギャップが実は存在したかも知れません(片方を作ってから、もう片方を作る間に、熟練度が増したかもしれないということ)。人間は同じものをたくさん作ると、最後に作ったものは初期に作ったものより、熟練度が増すという現象で、これは多くの人が経験することです。

両者はヴァンダイク・クリスタルを使用していますが、同じ顔料を使ったとしても、細部にわたるテクスチャを再現することは、神業に近い「強いこだわり」が必要になることでしょう。

ただし、本作に関しては、そこまで似せる必要性を感じていなかったこともあり、全体として違和感に結びつかなければ問題ないというスタイルを貫いています。

なぜ、細かいところまで似せる必要がないのかは、のちほど考察します。

一つ一つについて、技巧的面から細かく解説を試みましょう。まず、形状について。リーフは茎の付け根から右上方に向けて流れるように配置されます。

彫刻としての本作の見どころは、躍動的な葉の動きを表現できているかということ。「目」と呼ばれる、リーフとリーフの間の小さな空間も、見せ場の一つです。

バックグランドは「レイジーマンズ・バックグランド(Lazy man’s background)」とよばれる、「パンチング」で埋め尽くします。レイジーマン(怠惰な男)とはバックグランドをキッチリ仕上げないで、パンチングで欠点を「ごまかす」人、もしくは作り手に由来する呼び名です。しかし、バックグランドをキッチリ仕上げないまま、パンチングを行うとそれは共感を呼ぶ作品にはなりません。

バックグランドも自然なエイジングがわかるよう、わざと配色に濃淡をつけていることがわかりますでしょうか?

以下の写真は塗装する前、白木の状態の写真。

ちょっと暗いですが、もとはこんな感じです。

アカンサスリーフ塗装前

対になるモチーフのもたらす心理的効果について

技巧的な面の説明で、あえて完全に同じものを作ろうとしたわけではないことをすでに解説しました。

では、それはなぜか?

ここでは、対となるモチーフがそれを見る人間にもたらす心理的効果について、少し考察してみたいと思います。

人間は、見ると不安になるようなものは、本能的に自然に避けようとします。アカンサスリーフのモチーフは、中世のころから人間の近くに存在したため、現在人の私たちにとっても、非常に見慣れたモチーフであり続けているわけです。そのため、見る人に非常に安心感を与えます。

実際のアカンサス・リーフがどのようになっているかは、本当のことをいうと、あまりどうでも良い事です。見て安心する形、癒される形、心を同化できる形が重要で、それが受け継がれてきたわけです。

では、このアカンサス・リーフのモチーフが2つ並んだときの効果を考えます。

1個体でもすでに述べた通り、十分癒されるのに、扉の両側に反対勝手のモチーフが2つもあれば、2倍癒される、、

か?と言えば、実は話はそう単純では無さそうです。

仮に、「人間というものはリーフの形が好きなのだ」という仮定があるのならば、NCなどの工作機械や、3Dプリンターなどを使い、反対勝手の作品をコピーすればよいわけです。簡単だし、コストがかからないでしょう。

ところで、人間はそれを美しいと思うでしょうか?

答えは、ご想像のとおり「ノー」です。

人間は作品を見るとき、その作品の背後にある作者の気持ちを、何とかして汲み取ろうとします。作者の気持ちと同化できたたき、初めて作品に対して親近感を抱き、その作品は自分に対して何をもたらしてくれるのか?を考えることができるようになります。

ところが、機械には当然「心」が無いので、その作品の背後にある作者の気持ちを汲み取ろうとする努力を、人は途中で投げ出してしまいます。「良いな」と思われた作品から、一瞬で興味を失ってしまうのも、作品の背後にしかけられたこういった人為的な罠を見つけてしまったときです。

「まったく、同じに作らなくてはならない」ではなく、「同じっぽく見えなくはならない」とする理由はこの辺にありそうです。

少なくとも、「同じっぽく見えるようにする」という作者の努力は、見る人は必ず見破るようです。その努力を嗅ぎ取ったとき、その作品は、見る人に親近感を抱かせます。

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